文学散歩マップ
新美南吉記念館がある半田市と、その周辺には、今も南吉ゆかりの地が多く残っています。物語の舞台となった場所や、南吉の生家、通い歩いた八幡社など、ぜひ一度訪ねてみてはいかがでしょうか。
全域マップ
生家周辺マップ
ボランティアガイドについて
新美南吉顕彰会では、文学散歩ボランティアを養成し、新美南吉ゆかりの地の案内をしています。詳しくは新美南吉顕彰会のホームページ(外部リンク)をご覧ください。
スポット紹介
新美南吉記念館(にいみなんきちきねんかん)
新美南吉記念館は平成6年6月に、「ごん狐」の舞台となった中山の地に開館しました。南吉の自筆原稿、日記、手紙、関連図書のほか、「ごん狐」「手袋を買いに」などの童話作品を再現したジオラマ模型などが展示され、南吉の生涯と文学世界にふれることができます。
平成25年1月には、新美南吉生誕100年を記念してリニューアルオープンをしました。
南吉の生家・渡辺家(なんきちのせいか・わたなべけ)
南吉は大正2年7月30日にこの家で生まれました。道から見て右が父渡辺多蔵の畳屋、左が継母志んの下駄屋でした。知多半島を縦断する街道と横断する街道が交わる地点に位置し、付近には常夜燈や石の道標ものこっています。幼い頃の南吉は、店から表の道を行き交う人々を眺めて育ちました。
傾斜地に建っていて、正面から見ると平屋ですが、裏にまわると二階建という変わったつくりになっています。
童話 「狐」や小説「雀」「帰郷」などの舞台で、南吉が亡くなる2ヶ月前に喉の痛みをこらえながら、「狐」「小さい太郎の悲しみ」など最後の作品を書いたところでもあります。
一時人手に渡っていましたが、半田市が購入し、当時のままに復元して昭和62年から公開しています。
見学時間 | 9時~17時(無料) |
---|---|
休み | 年末年始 |
住所 | 半田市岩滑中町1?83 |
令和5年、新美南吉生誕110年を記念して、地元ケーブルテレビCACが生家をマーターポートカメラ(360度撮影可能な3Dスキャンカメラ)で撮影して、公開しました。実際に生家を訪問して中を見学しているような仮想体験ができます。よろしければご覧ください。
南吉の養家・新美家(なんきちのようか・にいみけ)
生母りゑの実家の新美家。裕福な農家でしたが、大正10年、叔父鎌治郎の病没により跡取りがいなくなり、同年7月、当時8歳の南吉が養子として迎えられました。南吉は、ここで祖母の志もと二人きりの生活をおくりますが、寂しさに耐えられず、12月には渡辺家へ戻りました。童話「小さい太郎の悲しみ」「川<A>」に登場します。
志もの死後、長く無人になり、荒れていましたが、故神谷幸之氏が中心となって整備保存され、現在は公益財団法人かみや美術館の分館として管理されています。また、裏の土蔵は新美南吉に関する資料館になっています。
※母屋内部及び土蔵の資料館の見学には、事前予約と見学料300円が必要です。かみや美術館(TEL0569-29-2626)に電話でお申し込みください。外観のみの場合は自由に見学できます。
半田市立岩滑小学校(はんだしりつやなべしょうがっこう)
南吉の母校で、昭和6年には代用教員として教鞭をとった学校でもあります。「嘘」「貧乏な少年の話」「屁」「耳」などに登場します。校内には「権狐」碑、「落葉」詩碑、当時から子どもたちを見守るナンキンハゼの大木があります。
※見学の際は事前に連絡をしてください。
常夜燈(じょうやとう)
文化5年(1808)、岩滑の秋葉講により建立された常夜燈。南吉の生家の前にあり、幼い頃の南吉の遊び場のひとつでした。石段には、子どもたちが「草つき」をして遊んだくぼみが残っています。「花を埋める」「音ちゃんは豆を煮ていた」に登場します。
矢勝川(やかちがわ)
半田池を水源とし、岩滑新田と岩滑の北側を流れて阿久比川に注ぐので背戸川(裏の川)とも呼ばれました。「ごん狐」では兵十がウナギを捕っていた川として登場します。秋の彼岸には300万本の彼岸花で彩られます。
岩滑八幡社(やなべはちまんしゃ)
岩滑の氏神。南吉は毎日ここの境内を通って、離れの家と店(生家)を往復していました。童話「狐」「久助君の話」「疣」などに登場するほか、「権狐」(「ごん狐」の草稿)も境内の若衆倉の前で茂助爺から聞いた話として創作されています。
常福院(じょうふくいん)
永禄年間(16世紀中頃)、岩滑城主の中山勝時が建立した浄土宗西山派の寺院。戦前は境内で盆踊りが行われ、南吉もよく踊っていました。境内の大ソテツは創建時に植えられたもので市指定天然記念物です。童話「ひよりげた」の舞台となったほか、「久助君の話」、小説「塀」にも登場します。
光蓮寺(こうれんじ)
「ごんごろ鐘」「百姓の足、坊さんの足」に登場する寺のモデルとなった真宗大谷派の寺院。南吉は子どもの頃、ここの信徒の集まりでお経を覚え、東京外語受験の際には早稲田大学卒業の住職にディクテーション(耳で聞いた英語を書き取ること)をしてもらいました。南吉の戒名「釈文成(しゃくぶんじょう)」を考えたのもその住職です。
南吉の墓・六地蔵(北谷墓地)(なんきちのはか・ろくじぞう)
北谷墓地は、昭和8年に半田市内の四つの墓地を集めてつくられました。「ごん狐」のなかでごんが隠れていた岩滑の六地蔵もここに移されています。南吉の墓は、昭和35年、父の渡辺多蔵によって建てられました。
ででむし広場(ででむしひろば)
通称「安川」が矢勝川に合流するところにつくられた小広場。ででむし(カタツムリ)の像やキツネの滑り台などがあります。広場の名前は、南吉が安城高等女学校で生徒たちとつくっていた詩集に掲載した詩にちなんでつけられました。
しんたのむね
童話「牛をつないだ椿の木」の舞台となったところ。江戸時代に開発された新田にちなみ「新田の棟」という意味で「しんたのむね」と呼ばれました。昭和30年代までは、作品に描かれたとおり清水が湧き、茶碗が置かれていて、人々がのどを潤していました。
半田池跡(はんだいけあと)
元禄8年(1695)、矢勝川の上流につくられた溜池。戦前までは、ハンノキやヤナギが茂っていました。童話「おじいさんのランプ」の舞台となったほか、「嘘」にも登場します。池の横には、岩滑から大野に通じる大野街道が通っています。
※現在は水が抜かれています
半田高等学校(はんだこうとうがっこう)
元の半田中学校(旧制)で、南吉は第8回生。確認できる南吉最初の作品「椋の実の思出」は、同校の学友会誌「柊陵」に発表されたものです。校内には昭和4年3月2日の日記を刻んだ碑とブロンズ像「少年とごん」があります。
※見学の際は事前に学校へ連絡してください。
旧墓地(きゅうぼち)
現在、岩滑コミュニティセンターのある場所は、昭和8年まで岩滑の墓地でした。「ごん狐」でごんが六地蔵の陰から兵十の母の葬列を見る場所は、ここが舞台になっています。ここから光蓮寺に続くを「そうれん道」と呼んでいました。
はなれの家跡(はなれのいえあと)
大正13年に父が購入。南吉が普段寝泊りに使い、病に伏せて亡くなったところでもあります。部屋中に本棚を組み、その下で寝ていた南吉は見舞に来た巽聖歌(詩人)に「本に押しつぶされて死ぬなら本望です」と語ったといいます。伊勢湾台風で倒壊し、現在は案内板が建つのみです。
※新美南吉とはゆかりのない一般の方がお住まいです。静かにご見学ください。また写真撮影はお控えください。
雁宿公園(かりやどこうえん)
明治天皇の行幸を記念し、南吉が生まれた大正2年に開園した公園。岩滑小学校での代用教員時代、児童と遠足に訪れています。半田市内で最初に建てられた南吉顕彰碑である「貝殻」詩碑があります。春には知多半島随一の桜の名所としてにぎわいます。
権現山(ごんげんやま)
半田市の隣、知多郡阿久比町植大にある小山。山頂には昔から「権現さん」と呼ばれてきた五郷社が鎮座し、西麓には西狐谷池が山影を映しています。南吉が子どもの頃、この辺りにキツネが住んでいて、「ごん狐」の由来になったと考えられています。
住吉神社(すみよしじんじゃ)
岩滑から半田に通じる通称「大道」沿いにある神社。社前の宮池は、童話「うた時計」「一年生たちとひよめ」に登場し、池のほとり(東の鳥居の近く)には、「ひよめのうた」碑が建てられています。春の祭礼では、提灯を灯したまきわら船が浮かび、「おじいさんのランプ」さながらの幻想的な光景が見られます。