目次

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1.生い立ち・幼年

 大正2年、半田町岩滑に生まれる。4歳で母を亡くし、6歳のとき継母を迎え、8歳で養子に出されました。さびしく、孤独な生い立ちでした。

2.旧制半田中学校のころ

 大正15年(昭和元年)、旧制半田中学校へ入学しました。2年生のころから、童謡、童話をつくりはじめました。ノルマをきめて創作をし、さかんに雑誌に投稿しました。たくさんの作品が掲載され、創作の力を伸ばしていきました。

3.半田第二尋常小学校代用教員のころ

 代用教員として2年生の担任をし、「ごん狐」などの作品を書いて、鈴木三重吉に認められ、『赤い鳥』にのりました。

4.東京外国語学校のころ

 昭和7年、東京外国語学校英語部文科へ入学しました。英文学を学び、先ぱい、友人との交流により、児童文学を深めていきました。幼年童話や小説を多く書きました。

5.河和第一尋常高等小学校代用教員のころ

 病を得て帰郷しましたが、病をおして勤めに出ました。

6.杉治商会のころ

 鴉根山の農場に住み込んで働きました。

7.安城高等女学校のころ

 女学校の教師として、充実した生活を送ることができました。生徒の詩や自分の作品をハルピン日々新聞にのせました。三度目の発病をし、命を削るように作品を書き、多くの物語をのこしました。

8.没後名声高まる

 蝸牛詩碑(安城高女)、貝殻詩碑(雁宿公園)が建てられ、新美南吉顕彰会がつくられました。南吉の作品がつぎつぎと出版され、教科書にも取り上げられ、広く知られるようになりました。

幼年のころ

大正2年(1913)7月30日

  • 南吉は、半田町字東山86番地(現、愛知県半田市岩滑中町1丁目83番地)で生まれました。
  • お父さんは、渡辺多蔵さんといいます。その二男で、「正八」(しょうはち)と名づけられました。
  • 南吉のお兄さんは、明治45年に生まれ、18日後になくなりました。お兄さんの名まえも「正八」です。
  • お父さんは、お兄さんの分まで「元気で、かしこく生きてほしい」と考えて、南吉に、この名をつけたのだそうです。

 ▲南吉の生家(復元)

大正6年(1917) 4歳

  • 11月、お母さんの「りゑ」さんは、小鈴谷(常滑市坂井)の伊東医院で病気をなおそうと努めていましたが、そのかいもなく、なくなりました。お母さんはその時29歳でした。

大正7年(1918) 5歳

  • 4月ごろ、南吉のお父さんは「志ん」さんを新しく妻にむかえ、南吉もいっしょにくらすことになりました。
  • 7月、子ども向けの雑誌『赤い鳥』が東京で発行されました。

大正8年(1919) 6歳

  • 2月15日に弟「益吉」が生まれ、その少し前にお父さんとお母さんが正式に結婚しました。
  • 南吉は、4・5歳のころから、近所の森はやみさん(当時、小学校4年生)に子もりをしてもらいました。

大正9年(1920) 7歳

  • 4月、半田第二尋常小学校(現岩滑小学校)へ入学しました。
  • おとなしい子どもでしたが、勉強はとてもよくできました。

大正10年(1921) 8歳

  • 7月28日、なくなった母親りゑさんの生まれた家(岩滑新田)の養子となり、おばあさんと二人でくらすことになりました 。
  • 「渡辺正八」から「新美正八」と、名前がかわりました。
  • 友だちも少なく、さみしい毎日でした。おばあさんの家は、竹やぶにかこまれていました。家のまわりには田や畑がひろがっていました。

 ▲養子先の家

  • おばあさんの家から、その年の12月には、お父さんのいる家に帰りました。
  • 南吉は、そのころのことを、おとなになってから、次のように小説に書いています。

(略)それはまだ彼が町にいた頃、近所の鍛冶屋の子と遊んでいた時その子の母親が言った言葉であった――「伸ちゃは、いはば要らん子だ、後から来たおっ母ちゃんに子供衆が出来なすったで。」

(「川」Aより)

 常夜燈の下で遊んでいるところへ、母が呼びに来て家につれられて帰ると、初という人が私を待っていた。少しの酒と鰯の煮たのとでささやかな儀式がすんで、私は新しい着物を着せられ、初という人につれられて、隣村のおばあさんの家に養子にいったのだった。

 九つだったか十だったか。

 おばあさんの家は村の一番北にあって、背戸には深い竹薮があり、前には広い庭と畑があり、右隣は半町も距たってをり、左隣だけは軒を接していた。そのような寂しい所にあって、家はがらんとして大きく、背戸には錠の錆びた倉が立ち、倉の横にはいつの頃からあったとも知れない古色蒼然たる山桃の木が、倉の屋根と母屋の屋根の上におおいかむさり、背戸口を出たところには、中が真暗な車井戸があった。納戸、勝手、竈のあたり、納屋、物置、つし裏など暗くて無気味なところが多かった。家は大きかったが電燈は光度の低い赤みがかったのが一つしかなかったので、夜は電燈のコードの届かない部屋にいく時、昔のカンテラを点してはいっていった。 夜はもちろん寂しくて、裏の竹薮がざあざあと鳴り、寒い晩には、背戸山で狢のなく声がした。昼でも寂しかつた。あたりにあまり人がみられなかつた。

 おばあさんというのは、夫に死に別れ、息子に死に別れ、嫁に出ていかれ、そしてたった一人ぼっちで長い間をその寂莫の中に生きて来たためだらうか、私が側によっても私のひ弱な子供心をあたためてくれる柔い温ものをもっていなかった。

(〈 無題 〉「常夜燈の下で」より)

大正12年(1923) 10歳

  • 3・4年生のころの「つづり方帳」が、1冊のこっています。その中には、会話文を生かした、すなおな文がみられます。
  • 「川(B)」「雀」「花を埋める」などの小説や童話に小学校のころのことが、書かれています。

 ある日の日ぐれどき、私たちはこの遊びをしていた。私に、とうふ屋の林太郎に、織布工場のツルさんの三人だった。

 私たちは、三人同じ年だった。秋葉さんの常夜燈の下でしていた。

(「花を埋める」より)

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旧制半田中学校のころ

大正15年(1926) 13歳

  • 南吉は1年から6年まで小学校ではいつも学年で一番よい成績でした。
  • 卒業のとき、「知多郡長賞」を受けました。
  • 4月、旧制半田中学校(現半田高校)へ入学しました。

昭和2年(1927) 14歳

  • 中学校2年生のころから童謡をつくり始めました。
  • 家ではお父さんのたたみ作りの仕事を手伝ったり、町へお金を集めにいきました。

昭和4年(1929) 16歳

  • 5月「古井戸に落ちた少佐」(後の「張紅倫」)という童話を、書きました。
  • この年、童謡122編、童話15編、詩33編をつくりました。
  • 雑誌『赤い鳥』の休刊を町の本屋で知り、南吉は残念に思いました。
  • 岩滑の若い人たちと「オリオン」という雑誌をつくりました。そのころのノートに、童謡・詩・童話がのこされています。
  • 現在わかっている限りでは、この年にはじめて「新美南吉」というペンネームを使いました。

3月2日(土) 風

余の作品は、余の天性、性質と大きな理想を含んでいる。

だから、これから多くの歴史が展開されて行って、今から何百何千年後でも、若し余の作品が、認られるなら、余は、其処に再び生きる事が出来る。此の点に於て、余は実に幸福と云える。

(「昭和4年自由日記」より)

  • 昭和4年から5年にかけて、今の名鉄河和線をつくる工事が行われました。そこで働く人たちの様子を「アブジのくに」という童話に書きました。

昭和6年(1931) 18歳

  • 3月、半田中学校をすぐれた成績で卒業しました。

 ▲半田中学校卒業記念の写真(南吉右端)

  • 小学校の先生になるために師範学校を受けますが、体が弱く、体格検査に落ちて入学できませんでした。そのときの気持ちを、次のように短歌に表現しています。

概評のか所を友らとくらぶらば 我のみわろきふ号つきおり

体かくの検査にわれはいられず 電車の火ばな見つつ帰るも

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半田第二尋常小学校代用教員のころ

昭和6年(1931) 18歳

4月1日

道でひとりの人にも会わなかったら、きっとつまらなかったろう。けれど彼ら(村の人)は、よく見つめてくれた。いままで中学校に通っていた自分を、彼らは、あっけにとられたといったかたちで、見つめた。

   *

新道へ出ると、大ぜいの子どもたちが、学校の方へ、一群一群になって歩いていた。知っている子ばかりだった。

学校へくると、まだ早かったため、先生はひとりもいなかった。ひとりきりぽつんと、職員室の片すみにこしをかけていた。

  • 母校、半田第二尋常小学校(現岩滑小学校)の先生となり、2年生を受け持ちました。
  • 4月17日、自分でつくった「巨男の話」を、クラスの子どもに聞かせました。
  • このころ、先生をしながらたくさんの童謡をつくりました。
  • この年の1月からふたたび出されていた『赤い鳥』の5月号に、はじめて童謡がのりました。
  • 6月ごろ、自分の作った童話「ごん狐」を、子どもたちに話して聞かせました。
  • 8月、小学校の先生をやめました。
  • 『赤い鳥』の8月号に童話「正坊とクロ」、11月号に童話「張紅倫」、童謡「月から」「星からきた人」などがのりました。
  •  ▲代用教員の辞令

  •  ▲半田第二尋常小学校(昭和6年)

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東京外国語学校のころ

昭和7年(1932) 19歳

  • 『赤い鳥』1月号に、南吉の代表作として親しまれている「ごん狐」がのりました。
  • 4月、東京外国語学校英語部文科に入学しました。合かく発表のときの様子を、巽聖歌は次のように書いています。

 「あるんですよ、あるんですよ。番号は私のらしいけれど、見あやまりでないかと心配なんです。いっしよに行って見てください」

 南吉は、泣き出しそうな顔をして、じたばたした。当時の外語は、竹橋だったから、私は手をひかれて、外語までかけていった。

 入学手続きをすまして、彼は意気軒昂だった。

(「新美南吉の手紙とその生涯」より)

  • 『赤い鳥』5月号に、童話「のら犬」がのりました。12月号には、「島」という童謡が特選に選ばれました。
  •  ▲『赤い鳥』昭和1年7月号

  •  ▲東京外国語学校正門

昭和8年(1933) 20歳

  • 東京での生活は、お金はじゅう分ではありませんでしたが、友だちにもめぐまれ、活気に満ちた日々を送っていました。
  • 当時の様子を、次のように日記は伝えています。

5月1日 東京

藤掛太郎に手伝ってもらい、学校の寮から下宿にうつる。

場所は、中野区新井薬師506 川村方。

2階の三じょう。電とうつき、へや代4円50せん。かべぎわへ本をつむ。

5月3日 東京

夜、町の本屋で、与田凖一と会い散歩する。童謡の話をする。大へん参考になる。

童謡「蜜柑畑」をつくる。

10月1日 東京

午前、与田凖一と散歩。いなかのひがん花をなつかしむ。

10月2日 東京

家から小包と手紙がとどく。小包には、あわせ、チョッキ、柿などが入っている。 手紙を続んで親の無事を知る。

「ヌスビトト コヒツヂ」(童話)を書く。

12月24日 東京

第二学期の授業が終わる。

巽聖歌といっしょに北原白秋をたずね、夕飯をごちそうになる。

12月26日 東京

巽聖歌の家で、原稿の整理を手伝う。

夜、「手袋を買ひに」を書きあげる。

12月27日 岡谷

信州まわりで、岩滑に帰る。午後二時、上諏訪の駅につく。

諏訪湖の波の音をききながら武井直也宅へ。山の上の湖で、スケートをして見せてくれる。

  • 南吉は映画を見たり、音楽を聞いたり、本を読んだり、友だちと語り合ったりしながら、文学の勉強をして、童謡や童話を次々に生み出していきました。
  • この時期の南吉は北原白秋や巽聖歌、与田凖一など、すぐれた詩人にはぐくまれて、文学の力を伸ばしていきました。しかし、南吉の体はこうした中ですこしずつむしばまれていきました。

 ▲明治神宮にて(南吉)

昭和9年(1934) 21歳

  • 南吉は2月のおわりころ顔色も悪く、ねあせをかいたり、たんに血がまじっていたりして病気になりました。学期末の試けんを受けないで、体を休めるために岩滑に帰ってきました。
  • 3月、弟益吉は小鈴谷村(現常滑市)のお酒やみそ・たまりをつくる会社につとめました。お父さんもお母さんもさびしくなりました。
  • 南吉は「弟」という詩に、そのころの弟の様子や家族の気持ちを書いています。
  • 「塀」「雀」「父」などの小説を、このころから書きはじめました。これらの小説から、当時の南吉の家の様子や岩滑の人々のくらしを知ることができます。

昭和11年(1936) 23歳

  • 3月16日に東京外国語学校を卒業しました。1年生から4年生まで、英語や国語の成績はいつも「優」でした。
  • このころは世の中が不景気で、学校を出てもなかなか仕事につくことができませんでした。しかし、南吉は東京で英語を生かした仕事につくことができました。
  • 下宿の夏は暑く、体の弱い南吉にとっては苦しい毎日でした。ついに10月9日、病気にたおれて床についてしまいました。
  • 下宿でねていましたが、11月16日の夕方、南吉は岩滑に帰ってきました。
  • 岩滑に帰ってきた南吉は、病気をなおすために、栄養のあるものを食べたり、体をやすめたりしていました。このころ、ノートにたくさん俳句を書きとめています。

ふるさとの月夜ぞたれか笛を吹く (11月26日)

二つほど凧をあげたり山の村 (11月26日)

病癒ゆ 門前に貝踏み得たり今朝の春 (12月9日)

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河和第一尋常高等小学校代用教員のころ

昭和12年(1937) 24歳

  • 南吉は、昭和12年4月から7月31日まで、河和第一尋常高等小学校(現河和小学校)で4年生の子どもを教えました。そのよろこびを東京の巽聖歌に次のように知らせています。

 僕は、四月から河和という海ぞいの小さい町で代用教員をしています。

 半田から例の電車で三十分南へ走って終点につくとそこに波の音をきくことができます。ここが河和です。ひじょうになごやかな、美しいこころよいところなのですが、細いことをのべたてたとてそれが何になりましょう

 ここで僕はかりそめのささやかなしあわせを、味わっています。こんなところにこんなしあわせがあろうとはつゆ知りませんでした。

 生きていることはむだばかりでないことがこれでわかりました。

   昭和十二年六月五日

 ▲海の見える河和小学校への坂道

  • そのころの日記に、南吉は学校の様子や自分の気持ち、河和の自然について、次のように書いています。つかの間のしあわせといえます。

5月10日

名誉などいらない。このままこの海を見下ろす美しい小学校で教員をしていられたらと、つくづく思うことがある。

6月8日

三日四日早くやって来た梅雨。洋がさをくぎにかけると、ねずみのおのように、先から水がたれる。

廊下をいくと、といの中を勢いよく下る雨水の音が聞こえる。教室の中は、電とうをつけたいくらいの暗さだ。

運動場は、ぬまっている。海の音は高い。川口は、黄色くにごっている。

7月5日

また、からだの調子が悪い。朝、ねあせをかく。授業を二時間すると、足がつかれて口をきくのもいやになる。

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杉治商会のころ

昭和12年(1937)

  • 9月1日から南吉は、杉治商会鴉根山畜禽研究所につとめることになりました。当時の杉治商会では、にわとりのえさをつくっていました。南吉がつとめた鴉根の研究所は、昭和11年につくられ、配合飼料の研究をしていました。ここでは、にわとり1万2千羽、ぶた3百50頭、乳牛30頭をかっていました。この研究所は、第2次世界大戦後、愛知県知多郡武豊町にうつりました。

 ▲鴉根山の農場(杉治商会畜禽研究所)

  • 南吉は、ここに3か月ほどいて、12月7日から港の方の本社にうつりました。そのころの様子を、日記は次のように伝えております。

9月2日

鴉根山は空気がよい。今日から寄宿舎に入る。

12月11日

今日は、タイプライターを打たされた。楽しかった。訳しておけとわたされた手紙は、ポケットに入れてもって帰った。

これによって、始めて自分の語学の力がためされるのだ。

12月14日

成岩は、かし屋の多い古い町である。ほとんどのきなみに、かし屋がある。

駄がしの一ぱいつまった、上のふただけがガラスでできている箱が、土間にならんでいる。

昨日は、菊屋という製菓屋で、むしようかんを一本とウイローを二つ、十銭で買ってきた。

今日は、すこし大きな近代的な店で、栗ようかんを二本と、一つ一銭のカステラを十買ってきた。か しをポケットに入れて帰る楽しさは、子どものころからたいしてかわらない楽しさだ。

昭和13年1月4日

寒月や鴉根山の狐達

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安城高等女学校のころ

昭和13年(1938) 25歳

3月6日

佐治先生(安城高等女学校長)が、遠藤先生の家にこられ、ぼくをよんで、今日やっと県の方の話がついたと言われた。

これで、話がきまったのである。

女学校の先生になれば、もう何のはずかしいことがあらずに。一ぺん女学校でも中学校でも、先生になってくれれば、もう、明日死んでもええと思っとっただと、母は言った。

父が、小心の父が、あまりの喜びで、くるい出さねばいいと、そんな心配をした。

これで、もう体もあまりむちゃはできぬ。

3月9日

さて、ぼくは女学校の先生です。何だかヌクヌクして歩いている。

  • 4月4日、安城高等女学校(現安城高校)入学式。1年生56名の担任となる。1・2・3・4年の英語。1・2年の国語と農業担当。
  • 8月15日、瀧山寺へ生徒16名、先生4名で、自転車に乗ってハイキングにでかけました。そこで次のような短歌を作っています。

ゆきゆきて瀧山寺につきにけり 樹山をこめてとよもす水音

  • 詩「おさなきかたつむり」など、いくつかの詩をつくりました。

 ▲担任クラスの生徒たちと(昭和13年5月)

昭和14年(1939) 26歳

  • 詩「手」など、たくさんの詩を書きました。
  • 生徒たちの書いた詩を集め、生徒詩集を発行。
    第一集「雪とひばり」(2月)
    第二集「えんがわの針」(3月)
    第三集「じんちょうげと卵」(4月)
  • ハルピン日日新聞に、いくつかの詩を発表しました。5月17日に、「最後の胡弓ひき」の第一回分が新聞にのりました。
  • 生徒詩集が、つづけて発行されました。南吉は、どの集にも自分の詩をのせています。
    第四集「むぎ笛」(5月)
    第五集「さみだれの土蔵」(6月)
    第六集「星祭り」(9月)
    この詩集も、第六集で終わりになりました。そのわけを、南吉は次のように書いています。

ささやかないとなみでしたが二月に始めた詩集――詩集というのも可笑しい位のものですが兎も角第ニ、第三と続いて遂ゝ第六まで來ました。だがもうこれで当分やめねばなりません。戦争のため我々が喜んで忍ばねばならない不自由な中に紙の不足があるのです。それが遂に学校の中にもやって来た。紙商人はもう要るだけの紙を持って来てはくれません。何処にも紙がないと言います。詩が続かなくて止めるのではない、紙が足りないから止めるのです。だから紙が再び豊富になる時が来たら、そしてその時みんなの中に詩心がなおあるならば我々は再びこの細いいとなみの絲を操りたいものです。早くその日が来るといい。祖国のために。詩のために。

(第六詩集「星祭り」終刊の辞より)

  • ハルピン日日新聞に、「花を埋める」「久助君の話」がのりました。
    ※ハルピンは中国の東北地方にある町です。日日新聞はそこで発行されていました。

昭和15年(1940) 27歳

  • 「氷雨」「カタカナ幻想」の詩が、ハルピン日日新聞にのりました。生徒の詩も「黒板詩集」としてのりました。

昭和16年(1941) 28歳

  • 南吉の書いた『良寛物語 手毬と鉢の子』が東京で出されました。
  • 12月8日、太平洋戦争がはじまりました。
  • 12月に次の本を出そうと準備にかかりましたが、病気にかかってしまいました。

昭和17年(1942) 29歳

  • 1年生からうけもってきた生徒たちが、3月17日に卒業しました。
  • はじめての童話集『おぢいさんのランプ』が、出されました。この童話集には、「おぢいさんのランプ」「ごんごろ鐘」「貧乏な少年の話」などが入っています。出版のよろこびを、手紙で次のように伝えています。

 秋も深くなりました。お元気のこととぞんじます。

 昨日、せっ作童話集が、十さつ有光社の方からとどけられました。そして、あんがいよく出来ているので、よろこばしく思いました。

 じつは、十日ばかりまえ、下畑さんの「れんがの煙突」を、本屋でみつけ……(略)……

 自分の本を手にとってみますと、だいたいは、下畑さんのと同じことながら、親のよく目か、装てい・さし絵なども、自分の方がずっと重みがあり、これならばどこに出してもはずかしくないと思いました。

 棟方氏にたのんでいただけて、まったくよかったと思います。

 よい本を作ってくださって、ありがとうぞんじました。あらためて感謝いたします。

  巽 様        南吉

  •  ▲『良寛物語 手毬と鉢の子』

  •  ▲童話集『おぢいさんのランプ』

昭和18年(1943) 29歳7か月

  • 昭和18年1月のはじめから、南吉はとうとう病床につき、女学校を2月にやめてしまいました。
  • そのころの様子を、のこっている手紙は次のように伝えています。

 わたしは、毎日、吸入をかけたりして、正午までねています。それからおきて、日なたで読書します。電とうがともるころから、戸を閉ざすころまで、童話を書きます。……(略)……

 一月十一日    新美正八

   高正惇子様

 そんなに遠くまで、心配をかけて申しわけありません。

  のどがわるいので、いっさいのお見舞をおことわりして、ふせっています。

 たとい、ぼくの肉体はほろびても、君達少数の人が、ぼくのことをながくおぼえていて、美しいものを愛する心を育てていってくれるなら、ぼくは、君たちのその心に、いつまでも生きているのです。

 つかれるといけないから、これで失礼。

   佐薙好子様    二月九日

 いしゃはもうだめと

 いいましたが、もういっぺん よくなりたいと思います

 ありがと ありがと

 今日は、うめが咲いた由

   高正惇子様    二月二六日

  • 南吉の病気は、喉頭結核でした。物もとぼしく、医学の進んでいなかった当時、結核はなおりにくい病気でした。
  • 南吉は、常福院前の離れにねていました。安城高女の教え子たちが心配して見舞にきました。しかし、そのころには、もう声も出ないほど、病気は進んでいました。
  • 3月22日の午前8時。南吉は、お父さんお母さんにみとられて、短い生がいを終えました。
  • おそう式は4月18日に行われました。安城高女の先生方や教え子たちもお参りにこられ、わかれをおしみました。
  • 南吉がなくなってから童話集が発行されました。9月10日に『牛をつないだ椿の木』、9月30日に『花のき村と盗人たち』の2冊です。『花のき村と盗人たち』の目次は次のようになっております。
    • 「ごん狐」(『赤い鳥』昭和7年1月号)
    • 「百姓の足、坊さんの足」(昭和17年5月作)
    • 「のら犬」(『赤い鳥』昭和7年5月号)
    • 「和太郎さんと牛」(昭和17年5月作)
    • 「花のき村と盗人たち」(昭和17年5月作)
    • 「正坊とクロ」(『赤い鳥』昭和6年8月号)
    • 「鳥右エ門諸国をめぐる」(昭和17年5月作)
  • 南吉がこの2冊の童話集の発行をどんなに待ちわびていたか、次の手紙を読むとよくわかります。

……(略)……

 じつは二、三日、ノドわるし。

 だが長い病気は、船の旅。うきつ、しずみつ、すすむんだ。

 はやく童話集がみたい。今は、そのことばかり考えている。

 (母が一週間ばかり前からねこんだ。)

   昭和十八年三月八日

     巽聖歌様

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没後名声高まる

  • 南吉が生きていたころと今では、半田も河和も安城もずい分かわってしまいました。けれども、南吉ののここした童話や詩は、いつまでも人々に親しまれ、わたしたちの心に生きつづけています。
  • 戦争が終わって、人々の生活がおちついてくると、南吉文学を愛する人たちの手で文学碑が建てられました。
  • 昭和23年、安城高等学校にででむし詩碑が建てられました。南吉をしたう教え子や、同僚の先生たちが建てたもので、南吉の文学碑としては最初のものです。
  • 半田市の雁宿公園には、貝殻詩碑が昭和36年に建てられました。この詩碑は、南吉の作品に出てくるかたつむりやランプをもとにして作られました。
  • 半田市平和町にある南吉の養子先の家には、昭和48年に「墓碑銘」詩碑が建てられました。
  •  ▲南吉の墓(北谷墓地)

  •  ▲「貝殻」詩碑(雁宿公園)

  • 半田市や新美南吉顕彰会の人たちが力を合わせて、平成6年6月、南吉のふるさと岩滑に新美南吉記念館を建てました。
  • 半田市では、「山車・蔵・南吉」という言葉を使って町の紹介をしています。また、雁宿ホールの第二どん帳は、市内の小学生が南吉の作品を読んだ感想画をもとに作られています。
  • 新美南吉童話賞のコンクールが毎年行われています。このコンクールには、全国から約2千点の創作童話が集まってきます。
  • 南吉の作品は、子どもからおとなまでたくさんの人々に愛されています。1980年から、小学校4年生の国語の教科書すべてに「ごんぎつね」がのるようになり、それは今も続いています。

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