ふるさと・舞台について

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南吉の生まれた岩滑(半田市)はどんな町?
南吉が生まれ育った岩滑(やなべ)は、名古屋から南にのびる知多半島のほぼ真ん中に位置します。昔はひとつの村でしたが、明治9年に隣の半田村に合併され、現在は半田市の一部になっています。村は大野街道に沿って東西に長く、東が本郷、西が岩滑新田と呼ばれ、北側の植村(現在の阿久比町)との境には「ごんぎつね」の舞台にもなった矢勝川が流れています。岩滑新田は純粋な農村でしたが、岩滑には生活に必要な店は一通りそろっていて、南吉の生家の畳屋もそのひとつでした。

半田市は昭和12年に半田町、亀崎町、成岩町が合併してできた市で、中心地の半田は江戸時代から酢や酒をつくる醸造業で栄えました。現在も知多半島の経済、文化の中心地です。

 ▲酢の蔵が並ぶ半田運河

南吉は東京で学生をしていた頃どこに住んでいたの?
中野区の新井や上高田の辺りで、先輩の巽聖歌の家に居候したり、学校の寮に入ったり、部屋を借りて下宿したりして暮らしていました。中野は新宿の西にあたり、現在は駅前に大きなビルが建っていますが、南吉が暮らしていた昭和10年前後はまだ畑が少し残っていて、巽聖歌が童謡「たきび」にうたったようなのどかさもありました。
南吉が小学校の先生をしていた河和(こうわ)はどんな町?
知多半島の南、美浜町の東海岸に位置し、名古屋鉄道河和線の終着駅があります。昔からの港町で現在も三河湾の島々に渡る船便があります。
南吉が女学校の先生をしていた安城はどんな町?
愛知県西三河地方、碧海台地という大きな台地の上に広がる町です。台地のため、水が得にくく、江戸時代まではあちこちに原野が残っていましたが、明治時代に用水が引かれた後は、果物の栽培や豚や鶏などの飼育も行う進んだ農業が採り入れられ、日本デンマークと呼ばれました。
「ごんぎつね」の舞台はどこ?
「ごんぎつね」は南吉が生まれ育った岩滑の村が舞台になっています。中山さまのお城は、実際には常福院の西にあり、その出城か物見やぐらのようなものが、現在、新美南吉記念館の童話の森となっている丘(昔の地名が中山)にあったといわれています。兵十がはりきり網でウナギをとっていた川は記念館の北側を流れる矢勝川と考えられます。また場所は移りましたが、ごんが隠れていた六地蔵も市内の共同墓地に残っています。
「牛をつないだ椿の木」に出てくる"しんたのむね"ってどういう意味?
"しんたのむね"の辺りは江戸時代後半に開かれた新田で、まわりの土地より高くなっていたので「新田の棟」という意味でそう呼ばれるようになりました。この辺りには実際に泉が湧いていて、道を行き来する人がのどをうるおしていました。

 ▲しんたのむね

「おじいさんのランプ」に出てくる大野はどんな町?
知多半島の西海岸にあり、現在は常滑市の一部ですが、江戸時代から南吉の頃までは商家が建ち並ぶにぎやかな町で、古くからの海水浴場としても有名でした。東海岸側の岩滑や岩滑新田とは街道で結ばれていて、経済、文化などいろいろな面で深いつながりがあり、人の行き来も盛んでした。
「花のき村と盗人たち」の"花のき村"って本当にあるの?
「花のき村と盗人たち」の舞台は南吉が創り出した理想の村で本当にある村ではありません。しかし、この作品が書かれた頃に生活していた安城に"花ノ木町"という地名があるので、村の名前はそこからとったのかもしれません
岩滑にはどんな方言があるの?
岩滑の方言は、尾張(おわり・愛知県西部)と三河(みかわ・愛知県東部)、両方の方言の影響を受けています。南吉作品に出てくる岩滑の方言を少し紹介しましょう。

ほんときゃァ=本当ですか
きんの=昨日
くるだらあずに=来るでしょう
おそげェナァ=おそろしい
きやしんじゃ=来ないでしょう
半田には今でもキツネがいるの?
岩滑では昭和の初め、知多半島全体では昭和40年代までにいなくなってしまいました。その原因としては、キツネの餌であるネズミを退治する薬がたくさん使われたこと、犬の病気がキツネの間にも流行したことなどが考えられます。しかし、平成10年から知多半島各地でキツネを見たという報告や死がいの発見が相次いでいます。一度は姿を消した知多半島にキツネが戻りつつあるようです。

 ▲半田市内で野犬用の檻にかかった狐